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2024年08月10日

戦後における構図の変化2 沖縄戦体験・記憶  私の沖縄(歴史)研究15

 今回は、日本―沖縄―アメリカの中の、沖縄側からについて述べよう。
 まず、沖縄住民にとって、沖縄戦のなかで、そして戦争後における体験・見聞に基づく記憶が、日本・アメリカ・沖縄のイメージを作り、それが今日まで引き継がれている点に注目しておく必要がある。わけても、日本軍・アメリカ軍が住民に対して何をしたのか、という記憶は決定的である。
 戦中戦後の困難のなかで、沖縄住民自身の自らの命を守り、生活と仕事を創る体験が決定的である。それは、日本・アメリカ・沖縄というそれまでのイメージを大きく崩してしまった。
 過酷な沖縄戦をくぐり、人々はまずは命を守り、生きていくことを軸に、戦後はスタートしていく。そこから、「命ど宝」の言葉が育まれ、食糧確保と医療と福祉の取り組みが始まる。住民自身がそれらを確保することが中心であり、統治者となった米軍は、軍事食糧を投入することにどどまりがちであった。同時に、米軍は、基地確保整備を中心に、沖縄の基地化に突き進み、住民をそれに従わせようとする。米軍は、住民第一ではなく、軍事第一であった。そこには、日本は登場していなかった。
 このスタート時点における特質が戦後80年近くの現在まで引き継ぐことになる。今日展開されている諸事業――食料確保、医療、福祉、教育など――の原点をそこに求めることができる。今日叫ばれる「沖縄自立」「沖縄独自」といったものは、この時期に原点を見出すことができる。住民共同で食料確保し、住宅建設をする、集落をつくる、親を失ったものを保護し育てる、といったことが進んでいく。
 親族単位、集落単位、新たにできた近隣住民単位など多様な形があるが、それらの単位ごとに、住民生活を維持確立していく。当初は、自給自足的なものの要素が強いが、それも共同生活的な性格を多分にもっていた。戦後もしばらくすると、収入確保が不可欠になり、基地労働だけでなく、多様な起業が試行錯誤的に展開していく。それが、沖縄経済の不可欠な要素を占め、また戦後における開業率閉業率の高さとして長く持続していく。
 戦後、基地内労働に従事し、そこで身に付けた技術をもとに、またそこで作り出した原材料確保ルートを生かして開業し、戦後数十年以上にわたって事業を継続している例は無数に存在している。

戦後における構図の変化2 沖縄戦体験・記憶  私の沖縄(歴史)研究15

写真は本文にかかわりなく、池の上に葉の上に産み付けられたカエルの卵。池に落ちて孵るというわけ



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Posted by 浅野誠 at 19:33│Comments(0)沖縄
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