2023年03月06日
集落名 道 拝所 中山ガイド7
中山住民が暮らす集落周辺に話を移そう。
長く集落名は仲栄真(ナケーマ)だったが、戦後中山(なかやま)と変えた。沖縄の姓は地名を使うことが多い。戦争前後、「難解」な姓を変える動きがしばしば行われた。方言使用禁止の動きと結びつく。それに連動して、戦後中山となったようだ。
中山では戦前は、當山と知念の2姓だったが、多数は當山だった。戦後、當山姓は、井上、当山、宮平の三つに分かれた。知念姓は中山姓となる。いずれも、ハラ(門中)単位での改姓だった。
1980年代半ばから、集落外の他地域から移住してくる人が出始めるが、現在でも人口の10%ほどだ。その結果、それまでの四つの姓に、いくつかの新しい姓が加わった。
国道331号線が、集落を横切って東西に走る。2010年代に中山トンネルをくぐるバイパス道路ができる。それ以前からあって現在まで続く331号線は、明治末から大正初めに作られた「郡道」で、戦後「政府道」、そして「国道」に変わったものである。隣の玉城・百名と、冨里・當山を結んでいる。この道を、那覇と百名を結ぶ路線バスが走っている。バス停の一つは中山で、集落中央にあり、公民館に隣接する。もう一つのバス停「中山入口」は、集落4班にあり、隣字の冨里に接している。
その道路より、さらに上方に百名・玉城と冨里を結ぶ旧道がある。「昼なお暗い道」とうたわれるように、森の中を通る道であり、その旧道あたりに、戦前の中山集落があった。現在の中山愛犬訓練場の前を通る道である。細い道だが、現在も自動車が時々通っている。
他に、中山バス停あたりから海岸寄りに下りて、隣の玉城や新原を結ぶ道路がある。すれ違うには、一旦停止しなくてはならないが、交通量はかなりある。観光客のレンタカーも多い。また、集落内を何本もの道が走っている。畑には農道が何本もある。
旧集落の一番高いところに、「殿(トゥン)」がある。その近くに、草分けの旧家が数軒並んでいた。集落の共同墓3基も並ぶ(破風墓 亀甲墓)。旧集落中央には、ジーハンタがあり、中山の「始祖」を祀り、集落行事の中心場所になってきた。
南城市教育委員会「南城市の御嶽」2018年刊には、中山の御嶽が11個所掲載されている。並べてみよう。
殿 カンサギ ジーハンタ ジーハンタの守り神1 ジーハンタの守り神2 ジーハンタの守り神3 ジーハンタの守り神4 名称不明 ふる井泉(フルカー) 上の井泉(イーヌカー) 崎間子(サチマシー)
カンサギは、中山の「始祖」といわれる神舎下(かんさぎ)の家の敷地内にある。神舎下は時代ははっきりしないが、知念から移ってきたと言われる。ジーハンタにある古墓は、カンサギの元祖だとのことだ。
ふる井泉と上の井泉は、前回書いた古いカーである。
崎間子は、集落起源にかかわる民話で、戦に敗れて逃げてきた真壁の人を助けた崎間の墓ということだ。崎間はタマグスクにかかわる鍛治をしていたという。真壁バラは、現在井上姓で集落で最大人口の姓である。
この他にも拝所がいくつもある。
集落には、五つの石獅子がある。集落外から入ってくる魔物(マジムン)除けであろうが、いつごろどのような目的で誰が設置したかなど詳しいことはわからない。しかし、一つの集落に5つも残っているのは珍しい。

写真は、集落の一番奥にある石獅子
長く集落名は仲栄真(ナケーマ)だったが、戦後中山(なかやま)と変えた。沖縄の姓は地名を使うことが多い。戦争前後、「難解」な姓を変える動きがしばしば行われた。方言使用禁止の動きと結びつく。それに連動して、戦後中山となったようだ。
中山では戦前は、當山と知念の2姓だったが、多数は當山だった。戦後、當山姓は、井上、当山、宮平の三つに分かれた。知念姓は中山姓となる。いずれも、ハラ(門中)単位での改姓だった。
1980年代半ばから、集落外の他地域から移住してくる人が出始めるが、現在でも人口の10%ほどだ。その結果、それまでの四つの姓に、いくつかの新しい姓が加わった。
国道331号線が、集落を横切って東西に走る。2010年代に中山トンネルをくぐるバイパス道路ができる。それ以前からあって現在まで続く331号線は、明治末から大正初めに作られた「郡道」で、戦後「政府道」、そして「国道」に変わったものである。隣の玉城・百名と、冨里・當山を結んでいる。この道を、那覇と百名を結ぶ路線バスが走っている。バス停の一つは中山で、集落中央にあり、公民館に隣接する。もう一つのバス停「中山入口」は、集落4班にあり、隣字の冨里に接している。
その道路より、さらに上方に百名・玉城と冨里を結ぶ旧道がある。「昼なお暗い道」とうたわれるように、森の中を通る道であり、その旧道あたりに、戦前の中山集落があった。現在の中山愛犬訓練場の前を通る道である。細い道だが、現在も自動車が時々通っている。
他に、中山バス停あたりから海岸寄りに下りて、隣の玉城や新原を結ぶ道路がある。すれ違うには、一旦停止しなくてはならないが、交通量はかなりある。観光客のレンタカーも多い。また、集落内を何本もの道が走っている。畑には農道が何本もある。
旧集落の一番高いところに、「殿(トゥン)」がある。その近くに、草分けの旧家が数軒並んでいた。集落の共同墓3基も並ぶ(破風墓 亀甲墓)。旧集落中央には、ジーハンタがあり、中山の「始祖」を祀り、集落行事の中心場所になってきた。
南城市教育委員会「南城市の御嶽」2018年刊には、中山の御嶽が11個所掲載されている。並べてみよう。
殿 カンサギ ジーハンタ ジーハンタの守り神1 ジーハンタの守り神2 ジーハンタの守り神3 ジーハンタの守り神4 名称不明 ふる井泉(フルカー) 上の井泉(イーヌカー) 崎間子(サチマシー)
カンサギは、中山の「始祖」といわれる神舎下(かんさぎ)の家の敷地内にある。神舎下は時代ははっきりしないが、知念から移ってきたと言われる。ジーハンタにある古墓は、カンサギの元祖だとのことだ。
ふる井泉と上の井泉は、前回書いた古いカーである。
崎間子は、集落起源にかかわる民話で、戦に敗れて逃げてきた真壁の人を助けた崎間の墓ということだ。崎間はタマグスクにかかわる鍛治をしていたという。真壁バラは、現在井上姓で集落で最大人口の姓である。
この他にも拝所がいくつもある。
集落には、五つの石獅子がある。集落外から入ってくる魔物(マジムン)除けであろうが、いつごろどのような目的で誰が設置したかなど詳しいことはわからない。しかし、一つの集落に5つも残っているのは珍しい。

写真は、集落の一番奥にある石獅子
Posted by 浅野誠 at 08:19│Comments(0)
│南城玉城近隣