2025年04月19日
(続々々)全生研での出会い 出会った方々38
前回書いた城丸さんとは大会分科会以外にも、いろいろと出会い、共同して仕事をする機会を80年代には持つことが多いと同時に、著書から学ぶことが多かった。柔軟で多彩な視点で研究発言する城丸さんは、私にはとても魅力的だった。そんなことが発展して、城丸さんからアドバイスをいただくことも増えていった。お宅に泊めていただいたこともあった。私が沖縄のことでいろいろと研究を進めていたことも励ましていただいた。私が沖縄を離れることを残念がってもおられた。
同様に、当時全生研代表出会った春田正治さんにも、いろいろとお世話になった。春田、城丸、竹内さんとの付き合いの発展の中で、1983年の日本生活指導学会結成の取り組みが進んだのだ。春田さんはなぜだか、私を過大評価しておられた。最近書棚整理中に2001年にいただいた次のような手紙をみつけた。「あなたの現代世界史的立場からの新見解の展開に一歩踏み込んだ文章を拝見いたし」
研究者との付き合いでいうと、琉球大学教育学部は、著名な研究者を集中講義でお招きする機会をつくっており、私がかかわったのは、堀尾輝久さん、竹内常一さん、中内敏夫さん(1980年代後半)がおられる。そのたびに生まれる研究討論は、学生だけでなく私にも強い刺激を与えた。中内さんの受講生だった仲嶺さんは、その刺激で中内が当時所属していた一橋大学大学院で研究し、研究者となった。かれは、80年代後半の私の卓球の練習相手だったことも不思議な出会いだ。
また、出版社である明治図書の江部満さんは、若手研究者をバックアップする編集活動を70年代末から展開し、私にも「沖生研で何か出さないか」と声をかけられた。それをきっかけに「文化活動」の第一冊をはじめ、3冊を発刊した。「文化活動」では、中村透さんのご協力もいただき、沖生研の中では平川節子さんの活躍がすごかった。彼女には、琉球大学の実地指導講師にもなっていただき、私の授業を活性化するうえで、大いにお世話していただいた。90年代には、彼女とともに「人生の午後を語る会」を開いたのは、私が生き方・人生論に足を踏み入れる当初のことだった。

写真は本文にかかわりなく、我が家のトイレ美術館
同様に、当時全生研代表出会った春田正治さんにも、いろいろとお世話になった。春田、城丸、竹内さんとの付き合いの発展の中で、1983年の日本生活指導学会結成の取り組みが進んだのだ。春田さんはなぜだか、私を過大評価しておられた。最近書棚整理中に2001年にいただいた次のような手紙をみつけた。「あなたの現代世界史的立場からの新見解の展開に一歩踏み込んだ文章を拝見いたし」
研究者との付き合いでいうと、琉球大学教育学部は、著名な研究者を集中講義でお招きする機会をつくっており、私がかかわったのは、堀尾輝久さん、竹内常一さん、中内敏夫さん(1980年代後半)がおられる。そのたびに生まれる研究討論は、学生だけでなく私にも強い刺激を与えた。中内さんの受講生だった仲嶺さんは、その刺激で中内が当時所属していた一橋大学大学院で研究し、研究者となった。かれは、80年代後半の私の卓球の練習相手だったことも不思議な出会いだ。
また、出版社である明治図書の江部満さんは、若手研究者をバックアップする編集活動を70年代末から展開し、私にも「沖生研で何か出さないか」と声をかけられた。それをきっかけに「文化活動」の第一冊をはじめ、3冊を発刊した。「文化活動」では、中村透さんのご協力もいただき、沖生研の中では平川節子さんの活躍がすごかった。彼女には、琉球大学の実地指導講師にもなっていただき、私の授業を活性化するうえで、大いにお世話していただいた。90年代には、彼女とともに「人生の午後を語る会」を開いたのは、私が生き方・人生論に足を踏み入れる当初のことだった。

写真は本文にかかわりなく、我が家のトイレ美術館
Posted by 浅野誠 at 14:23│Comments(0)
│私の生き方人生