てぃーだブログ › 沖縄南城・人生創造・浅野誠

2024年04月26日

(続)学級集団づくりをめぐる社会構図の多面にわたる変容 学級集団づくりの再構築期10

 (前回からの続き)
〇 合計特殊出生率の低下に象徴される子ども数の減少が、「ショック」なこととして社会問題に登場し始めたのは1980年代のことだった。そこには子産み子育ての難しさが反映し、これまでの社会慣習を大きく塗り替えるものとなっていく。子ども減少は、数年もたてば、子ども間つながりの希薄化、子ども集団の小規模化・消滅などにつながっていく。
また、その反映の一つとして学級人数の減少があり、文教政策がからむことだが、30~50人から20~40人へと移っていく。
〇 以上の動向は「国内問題」だけでなく、グローバルな動向とつながって展開していく。その一つは、海外からの移住者が増大し、教室の中の「南北問題」が新たな形で拡大していく。当初は、「日本への同化」を軸にした対応であったが、徐々に「多文化」としての対応の必要が先進的な人々の中で主張され始める。 
〇 地球環境の悪化が、グローバルな取り組み課題となり、「持続可能」が重要なキャッチフレーズになっていく。子どもたちが成人になった10~20年後に予測される悪化状態を憂え、それを防ぐ論調が高まる。 
〇 世界の政治経済情勢の劇的変動が80年代末から進行していく。代表的には、旧ソ連圏の崩壊であり、経済上のバブル崩壊である。先進国における大量生産大量消費の経済が変容を迫られていく。
〇 子どもの権利条約に代表される諸権利や諸原理をめぐる新たな動向が多分野で広がる。ジェンダー・女性、 LGBT、多文化主義、開発教育、平和教育・軍縮教育など、子どもと教育をめぐる新しい動向が時代変化と並行して広がっていく。
〇 社会の構造的変化は、子どもたちの社会階層上の変化を伴う。とくに格差を新しい形で広げていくことが注目される。そうした状況を分析する研究と課題提起が、ブルデューやバーンステインなど欧米の研究にみられるが、階層上昇競争から脱落防止競争への転換が顕著になる80年代の日本でも、研究と問題提起が広がり始める。それは、競争重視が生み出す問題構造に対抗し、つながりや共同を強調する主張となっていく。
〇 この間、民主主義的な社会運動にも多様な展開の蓄積が見られた。たとえば統一戦線の展開、ネットワークの形成、生活の共同化の進展などがそうであるが、そうしたものが学級集団づくりの展開に新たな刺激と知恵を与えていく。



写真は本文とかかわりなく、クミスクチン(ねこのひげ)

  


Posted by 浅野誠 at 16:24Comments(0)教育子育て

2024年04月25日

テイカカズラ、ティートリー(メラレウカ・スノウインサマー)の開花

 花の季節は続く。今、真っ盛りなのは、テイカカズラ、ティートリーだ。
テイカカズラは、10年ほど前に植えたもので、数年前から咲いている。元気よく伸びて3階ベランダまで達している。地面から8メートルを超す高さまで、白い花でいっぱいだ。5枚の白いはなびらが風車のように咲いている。一つの枝から5~10ほど花をつけている。無数の花になる。
 ティートリーは、昨年の台風で中心幹が2本折れたが、残った2本ほどの幹から出た枝にたくさんの白い花をつけている。名前のように、インサマー(夏に)、スノウ(雪)のように咲く。しかし、その幹は、シマトネリコの向こう側にあるので、ベランダからは見えづらい。
 ほかにも、サンパラソル、アマリリス、ユリ、トレニア・コンカラーなどが咲いている。サンダンカも開き始めている。梅雨のさきがけのような天気で、チンナン(カタツムリ)の「全盛期」で、枝葉だけでなく花も食べている。花の間を、ツマベニチョウをはじめとする数種数十羽の蝶が飛び交っている。



  


Posted by 浅野誠 at 13:19Comments(0)庭・畑

2024年04月24日

海外旅行 私の人生通算第265

トロントでの在外研究の体験の中で、海外に出かけることのハードルが低くなり、友人知人から誘われて海外に出かけることが増えて来た。
2002年には、トロント大学の大学院生をし、ユネスコ職員としてタイで働いていた友人から、タイ訪問に誘われ、二人で出かけた。バンコック、アユタヤを中心にいろいろと回った。日本とは異なる流れの仏教文化が生活に満ちている姿を実感する。そのころまでに出かけたアジアはネパールだけだったので、印象深い訪問となった。
2007年には、博士論文執筆の指導を受けているウィーン大学でしばし研究生活を送っていた長女を訪問するために、二人でウィーンを訪問した。著名な宮殿、ベートーベンゆかりの地、市場、市中心部などをめぐった。また、ミュージカル「サウンドオブミュージック?」も鑑賞した。あわせてウィーンから比較的近いドイツのドレスデンに、トロント時代に親しく付き合った元トロント大学院生カップルが仕事の都合で住んでいたので訪問した。小さな子どもたちとも遊び、4つの言語を使う子どもたちにびっくり。市内めぐり、ワイン畑訪問など楽しんだ。
 2009年には、近隣住民たちが台湾訪問するというので、私も便乗した。恵美子はすでに台湾訪問を数回しているので、この時は私が単独で参加した。私の年齢からそれほど離れていない皆さんだが、カラの大きなスーツケースをもって買い物を楽しんでおられた。孔子廟とか博物館とか、私の興味をひいた名所は短時間見学だったが、時間ギリギリまで粘って楽しむ。
 2012年には、これまたトロント大学時代に親しく付き合っていたカップルがバリ島で、子ども向けの美術学校を開いているというので、そこの訪問を含めて、パック旅行をした。パック旅行は滅多にしないが、安価だし、自由時間設定が多いので、活用させていただいた。
 ツアーコースをしばし離れて、ウブドゥにある旧友たちの教室を訪問し、地元の生活文化・芸能などに直に触れた。町の中に散在する祈りの場所が花に満ちあふれている姿に好印象をもつ。美術学校を主催している彼は、インドネシアの大学で美術を学んだ後、地域の子どもたち、とくにストリートチルドレン対象の活動を展開した。その折、カナダから環境問題の取り組みのために同地に滞在していた人と結婚し、二人でトロントに向かい、そこで私たちと出会った。
 かれは、インドネシアの子どもたちとの活動を継続し、インドネシアの軍政終了後帰国し、活動を再開したというわけだ。私がトロントを引き払う際に、私が持っていたファックス電話が欲しいというので、彼の絵と交換した。その彼の活動を支援する意味も込めて、翌年、中京大学で彼の活動についての講演会をしてもらった。その際に、リレードローイングを紹介したが、それが、その後の私のワークショップの定番になったリレーお絵かきの原型となった。そして、名古屋のカレー店でのかれの作品展開催を援助した。そんな関係が続いて、私たちのバリ島訪問になったのだ。
 海外訪問には、他にヘルシンキ訪問とニュージーランド訪問があるが、後に別途書くことにしよう。



写真は本文にかかわりなく、百合の花


  
タグ :海外旅行


Posted by 浅野誠 at 16:35Comments(0)私の生き方人生

2024年04月23日

リレーお絵かき 小論ワークショップ25

私がトロントで研究していたころの友人でインドネシア人のスシヤワンさんが行っていた、グループでリレーして描いていくrelay drawing を私流にアレンジしたものだ。
まずテーマを決める。例「5年後の私」「こんなクラスにしたい」
5~6人でグループを作る
グループで1枚、または全員に1枚の画用紙を配る。
最初の人は、テーマにかかわる絵を自由に描く。持ち時間は3分
隣の人に回す。前の人が書いた絵に付け加えて描いていく。持ち時間は2分30秒
さらに隣の人に回す。付け加えて描く。持ち時間は2分 以後続けていくが、持ち時間を少しずつ減らす。
一周を越すぐらい回ったところで、最初に書いた人が多少のまとめの加筆をし、絵のタイトルを決め、物語を創る。
全体の場で発表。

最初の絵が思わぬ展開をしていく。多様な要素が加わっていくので、物語が生まれやすい。相談しながら、というのではない共同制作が、予期しない面白さをにじみ出してくる。阿吽(あうん)の呼吸の協力関係が生まれていく。
大変明るい雰囲気のなかで想像を超える興味深い絵が次々に生まれていく。



写真は本文にかかわりなく、着生ラン  


Posted by 浅野誠 at 10:29Comments(0)授業ワークショップ

2024年04月22日

変形性膝関節症 またもや新しい「病気」?

 19日朝、階段を上る時、左ひざがガクッとくる。痛み止め薬を塗ること3回。よくならない。左ひざに違和感を持ったのは、5年前のテニポンの時から。それでも、なんとかなってきた。
 しかし、今回ばかりは、と感じて、近くの整形外科クリニックに出かける。レントゲン撮影のうえ、「変形性膝関節症」の軽度のものとの診断。ヒアルロン酸注射をしてもらう。徐々によくなり、2,3日後、階段上りも問題なく出来るようになる。
 またもや、新しい「病気」診断を受けたことになる。いくつ目だろうか。恐らく10以上、いや20以上かもしれない。こうした時、私の「癖」で、体操(筋トレ、ストレッチ、姿勢改善など)で、何とかならないものかと試行錯誤を始める。インターネットで情報を得て、大腿四頭筋を鍛える体操2つを仕入れ、スタート。
 この「病気」は、70代では半数ほどの人がもつとのこと。女性に多いらしい。若いアスリートにはよくあるらしく、ニュ―スなどでよく聞く言葉「半月板損傷」もからんでいる。医師に聞いてみると、改めて本格的検査をしなければわからないが、私の左膝の半月板が割れている可能性は高いとのこと。私の場合は、スポーツが原因なのか、加齢が原因なのか、不明だが、多分、二つともからんでいるのだろう。
 現状の軽度から中度・重度に進むと、日常生活での支障が激しくなるので、なんとか進行を遅らせる必要がある。試行錯誤していこう。



写真は本文にかかわりなく、サクララン  


Posted by 浅野誠 at 08:37Comments(0)健康身体スポーツ

2024年04月21日

学級集団づくりをめぐる社会構図の多面にわたる変容 学級集団づくりの再構築期9

前回までに述べたように、学校生活における子ども集団の「一致団結」型ないしは共同体的性格が弱まり、子ども間の交わり関係の局限化が進む。それに代わり、企業社会に適合したつながりへと変化が進んでいく。と同時に地域子ども集団の縮小のなかで、子どもたちがみずからのつながり・集団・社会を築く貴重な場としての役割を、学校・学級がもつようになっていく。だが、子ども集団子ども社会形成はなかなか難しかった。つくろうとしても、暴力的関係いじめ関係に陥ってしまうことがしばしばであった。
 以上のことを別の角度から述べよう。1970年代までは、「一億総中流化」幻想を育成する場としての役割を果たした学校・学級は、その機能を果たすことが困難になっていく。それは、子ども間の経済上発達環境上の格差の拡大と並行し、学級のなかでも子どもが属する階層の差異による分断が進んでいくのが、80年代以降の現実であった。そうしたなかで、公立学校においてさえ学校選択を広げる動向が強まり、私立学校への進学者が増えていく。そのなかで学校個々がもつ階層的性格が濃くなっていく。また、学校を避けたいと感じる子ども、あるいは学校から「漏れ出た」子どもたちが通うフリースクールも増えていく。
 さらに子ども保護者間の経済的格差が拡大し、貧困問題に直面する子どもが増大し、学校の持つ福祉機能が、セーフティネットとして強く働くようになった点が注目される。
 以上述べてきたことの他に、1980年代から90年代にかけての子ども集団および学校・学級が見せるようになった変容の主な点を述べていこう。
〇 子ども管理において、校則に象徴されてきた「力ずくの物理的強制」よりも、偏差値などの数字による管理が、細部にわたって、子どもたちを縛るようになっていく。そのことが、非行や校内暴力などの「目立つ」形をとった学校に対する異議申し立てを、いじめや不登校などの形をとった「陰湿な」形をとるものへと変えていく。
それは、学校存在を絶対性なものと見るのではなく、相対的なもの、学校を偏差値に象徴される数値で評価する動向の拡大につながっていく。それは学校における市場的性格の強まりでもあった。
(続く)



写真は本文にかかわりなく、ジャボチカバの実 幹から直接開花し着果する 甘くて美味しい 今年初収穫 ただし10個 来年以降に期待
  


Posted by 浅野誠 at 09:53Comments(0)教育子育て

2024年04月19日

子どもたちの結婚・孫誕生 私の人生通算264

 私たちには三人の子どもがいるが、長男は満3歳になる直前になくなった。次男長女は2020年代前半には、40代の人生折り返し地点で忙しい日々を送っているようだ。
 2000年代は、その子どもたちの結婚、三人の孫の誕生が続く。次男は私たちの帰国を待って2000年に福岡で、長女は2005年に京都で結婚式を挙げる。京都での結婚式の折、最初の孫の子守を私が担当して、長時間御所周辺をベビーカーで散策したことが思い出される。次男は3人の子どもを、2001年福岡で、2004年沖縄で、2006年宮崎で誕生させた。二人目の孫は、息子家族が那覇に住んでいる際に、満月満潮の我が家の起工式と同じ日・時間の出産となった。
 子ども・孫は、県外生活だが、ほぼ年に一回沖縄訪問をする。中学高校生になっても、さらに大学生になっても、毎年訪問してくれるのは、とても嬉しい。私たちも彼らを訪問してきたが、2010年代半ばを過ぎると、私たちの訪問は激減する。
 孫たちは、2020年代には全員大学生大学院生となるが、専門分野は多様で、将来どんな職業につくのか、どんなところに住むのか、などは予想が付けられない。一人くらいは、私たち祖父母と暮らしてほしいと思うが、ほぼ夢想だろう。
 息子も娘も、現在大学教員になっているが、彼らが子ども時代の我が家は同僚や学生がたくさん日常的に我が家に出入りして、明るく楽しい空気に包まれていた。学生が子どもたちと遊んでくれることもあったし、所用で、遠足などの行事に付き合えない際には、同僚や学生たちが付き添ってくれたことも多い。二人とも出張で家を空けた時に、学生たち数人が泊まり込んで面倒を見てくれた。帰って聴くと、「幽霊話が面白かった」「麻雀やトランプを教えてもらった」と喜んでいた。
 そんなことで、大学教員の仕事は面白いと思ったのか、大学教員職に好印象をいだいたようだ。



写真は本文にかかわりなく、毛づくろいし合う猫たち
  


Posted by 浅野誠 at 13:21Comments(0)私の生き方人生

2024年04月18日

一年ぶり 沖リハ授業

 16日、沖縄リハビリテーション福祉学院言語聴覚学科で「対人援助」の授業をしてきた。同校同学科では、開設以来ほぼ20年にわたって授業してきた。長く年15~10回担当してきたが、近年は年4回だけだ。対人援助を仕事とする言語聴覚士が、対人関係をどう築いていくかを、ワークショップで実技の中で学んでいく。と同時に、新入生なので、クラスメイトの人間関係づくりの役割もあるようだ。
 今年は人数が多い。そのなかに数人の社会人入学生がいるが、ほとんどが18-19歳で、私の末孫と同い年だ。授業スタート4日目なので、実に初々しい。まだ会話を交わしたことのない人もいる中で、ワークショップをとおして多様なクラスメイトと関係を築き、元気よさがはちきれんばかりになってくる。
 グチの聴き方では、モデルの演技の「いいとこ探し」に実に的確な指摘が連続する。
 授業最後は、授業を通して感じたことを、漢字一文字または四字熟語で書いて床に貼り付ける(写真)。その中で注目した紙を書いた人に語ってもらう。たのしい振り返りだ。

 職員教員とも、一年ぶりに再会だ。長くつきあっているものだから、教員たちもほとんど卒業生たちになっている。「里帰り」のようなものだ。それにしても、90分間だけど、かなり疲れた。まさに年齢だと思う。今年で最後にするか、もう1~2年続けるか、微妙なところだ。


  
タグ :沖リハ授業


Posted by 浅野誠 at 14:17Comments(0)授業ワークショップ

2024年04月17日

無言の身体表現でコミュニケーションする 小論ワークショップ24

コミュニケーションは、言葉だけでするものではない。身体表現や雰囲気などでも伝え合う。それらを豊かにするワークショップだ。40年以上前に竹内敏晴さんのワークショップでヒントを得たことが最初だが、その際に体験したものを、その後いろいろとアレンジして活用してきた。
言語表現に困難を感じている患者さんのリハビリの際には、紙に書いて伝えるのもよいが、全身を使い表情豊かに伝えることができれば、相手の気持ちを前向きに揺さぶることもできる。また、集団での活動となると、話し上手がリーダーシップをとりやすいが、そうでない人にも、活躍の場を持ってもらいたいと思う。そして、表現することだけでなく、読み取ることも重要だ。

ここで紹介するのは、ここ10数年間でつくりやっているものだ。いくつもあるが、その一部を紹介しよう。
1)ペアをつくる。各ペアに「お題」を書いた紙を渡す。「なぐさめる」「元気づける」「頼る」といった、対人関係で生まれる動作を「動詞」で表現したものだ。
ペアで「お題」を表現する。動作にしてもよいし、ストップした1場面を「人間彫刻」で表現してもいい。それを見ている他の人達が推理してあてる。
2)ペアで握手した握りをとおして、「お題」を伝える。それを相手方があてる。
「お題」例。「よろしく」「頼りにしているからね」「ありがとう」
3)ボディランゲージで仲間を探す。
 5~6種類の文(例「あともう少しでうまく完成しそうだね」「協力してやるって、すごいね」)が書かれたカードを配る。文章の冒頭には、ABCDE(予定しているグループ数だけのアルファベット)。同文の紙切れには、グループ数だけのアルファベットがあることになる)が付されている。
 裏向きのカードを一枚とろう。とったカードの文章は内緒にして。カードに書かれたアルファベットごとにグループをつくる。
 「グループ内のメンバーはすべて異なる文ですが、他の各グループには、自分のカードと同じものを持つ人が一人います。演技を見ながら、その人を発見していきましょう。」と声をかける。全員が、順々にボディランゲージで自分のカードの文章を表現していく。同じ文を表現しようとしている人を発見しあう。2巡目以降は、同じだと思う人の前に行って表現する。3~4巡が終わって、同じ表現者だと察する人で集まる。
最初はもたもたする人も、展開のなかで、相互にコミュニケーションを取り合いながら、表現と読み取りが深まっていき、自分と同じ人を発見しやすくなっていく、



浜下り(旧3月3日) 我が家前の海岸を保育園児たちが散策する
  


Posted by 浅野誠 at 10:29Comments(0)授業ワークショップ

2024年04月15日

能力主義的序列競争秩序と市場大衆文化の支配・影響の拡大 学級集団づくりの再構築期8

前回10日記事に述べたように、1980年代以降、自生的子ども集団が縮小消滅し、多様な文化特性に分化した子どもグループが学級に併在するようになる。そのなかにあって、子どもたちの共通特性を生み出そうとするものをあげるとすれば二つの秩序・文化がある。一つは、能力主義的序列競争秩序であり、もう一つはマスメディアを介しての市場大衆文化である。この各々に対して、子どもたちがどういう位置をとり態度をみせるか。積極的迎合か、対抗し、別のものを模索するか、消極的避難・脱落か、そこには多様なものがある。これらの違いは、多彩であるというよりも、秩序・支配・強力な影響力に対しての態度の取り方の違いともなる。なかには、この二つと断絶するが、他のものを見いだせず、孤立を選ぶしかない子どももいる。
ここで、1991年10月に三重生研で行なった私の講演で紹介した、「はずれている子ども」のいくつかのタイプを紹介しておこう。
(a)おっとり型 タイミングが合わず、乗り遅れてしまっている
(b)存在感希薄タイプ 対他関係の希薄さのための乗り遅れ など
(c)必死に一元的秩序のなかで這い上がろうとするタイプ
(d)特異行動で自己の存在をアピールしようとするタイプ 例 ひょうきん 「ネアカ」をよそおう
(e )突っ張りタイプ
(f)成績上タイプ 学校文化への過剰適応によって、仲間関係からはずれる
(g)特定のものに優れている 学校文化にないものが優れている
これらは、2020年代の現在でも適合する例が結構多いだろう。また、10代後半から20代にかけての進路については、ストレーターコースではなく、そうではない中小企業・零細企業就職、起業、自営業、フリーター、非正規雇用などを選ぶものへと、広がっていく。 

こうして、たとえ非民主的にせよ自生的子ども集団を前提として学級集団づくりを展開するというよりも、子どもたちの間に関係性・つながりを作り、集団的関係を新たに組み立て、コースに乗るよりも自分なりの進路を発見創造する方向へ進ませようとする関わり方が学級集団づくりの中軸に座り始める。



写真は本文にかかわりなく、サンパラソル  


Posted by 浅野誠 at 17:10Comments(0)教育子育て

2024年04月14日

日日草 ペンタス ランタナ(七変化) いつもたくさん咲いている花

 花の季節を迎え、たくさんの種類の花が沢山咲く。でも、開花の種類が少ない時でも、沢山咲いている花はすごい。日日草 ペンタス ランタナ(七変化)がそうだ。この三つを、玄関脇やベランダの千年木の鉢に植えこんでいる。これで、年がら年中、花を楽しめる。
 そのなかでも、日日草はすごい。現在5種類育てているが、そのうちのピンクのものは、我が家だけでなく、道路脇など、近隣のあちこちで自生している。加えて我が庭では、赤、ベージュ、白、小ぶりなものを鉢植えしている。365日開花している。
 ペンタスも元気だ。花がら摘みをすれば、ほぼ年中咲く。色にはいくつも種類があるが、紫、ピンクなどを育てている。
 ランタナ(七変化)は、年中というわけでなく咲いたり散ったりを繰り返すが、大量の花を咲かせる。名前の通り、花の色が七変化する。
常時咲く花としては、他にはフウリンブッソウゲなどがある。


  


Posted by 浅野誠 at 16:53Comments(0)庭・畑

2024年04月13日

家の追加工事   私の人生通算263

 2004年9月に完成し、生活を始めた我が家に住み慣れるに従い、大変すばらしい環境のなかであることの実感を深めていく。その間、沢山の訪問者があり、ここでの生活を共に味わっていただいた。庭畑の整備も進んでいく。建物も、急崖での建築のため、しばらくは「心配」したが、風速56mの台風襲来、大雨にもビクともせずに安心できることを確かめた。その暮らしは、前回書いたとおりだ。
 一番気がかりだった財政問題もクリアし、手元に少しばかり残金が残った。また、退職による収入減と年金受給までの低収入期間を乗り切れるかどうかの心配も、非常勤講師などによる収入で対応できそうな感触をつかめるまでに至った。
 そのなかで、未着手の建築工事をなんとかする計画が進行し始める。2007~9年ごろに、三つの工事をした。その後は、ボイラーやアンテナなどの家電修理、そして、下水管修理などを含めて、日常点検をいくつも行っていたが、大きな修理は2021年までしなかった。その話は、別にしよう。
 ここでは、三つの「追加工事」ともいえるものについて書こう。その一つは、一階ベランダにウッドデッキを作ったことである。6畳以上の広さがある床面はコンクリート打ちっぱなしだし、庭との段差が80㎝ほどあって、使い勝手がよくなかった。そこで、ベランダから庭に直接下りる階段を作り、床面にウッドデッキを貼る工事をする。通常の板だと、腐食が速いので、セランカンバツという腐食しにくく硬い木材を使用して作ってもらう。
 その結果、美しい屋外の談話場のようなところが出来た。客人も含めて、色々な集まりを開くことができて大喜びであった。
 二つ目は、一階の空きスペースにシャワールームを作ったことである。客人が多い時には、2階の浴室だけでは間に合わない。とくに海水浴の後に不足となる。そこで、シャワールームを作る。
 もう一つは、エレベーター設置だ。建物は最初からエレベーター設置が可能なように作られていた。建築士は、予想される私たちの高齢化に対応して建物全体をユニバーサル・デザインにしたが、その一環である。しかし、私たちは当初の財政計画では費用を捻出できなかった。しばらくして、いろいろと工夫して費用を捻出して設置に踏み切った。エレベーターは本体を取り付ければそれでよいというわけでなく、建築基準法で、建物本体とエレベーター区画との防災区切りをはっきりさせることが指示されており、そこにかかる工事費用が、エレベーター代に匹敵するものとなった。
 こうして、ともかくも設置工事ができた。しばらくして車椅子の方の訪問があり、使用可能を確認できた。当初は利用が一日に一回あるかないかだったが、私たちが70代に入る頃からは、利用頻度も高くなっていく。



写真は本文にかかわりなく、ランタナ(七変化)
  


Posted by 浅野誠 at 15:13Comments(0)私の生き方人生

2024年04月12日

(続)物語づくり 変わり自己紹介 不思議なマイクロフォン 小論ワークショップ23

(前回4月7日記事の続き)
お話をリレーしていき、一回りすると、そこで終わりにしようとするグループが出てくるが、「さらに続けてください」とお願いする。グループ内をおおよそ3~4回まわったところで、終わりにする。そのころには、面白い話、場面の劇的展開などが登場し、グループが笑いの渦となる。
2回目の物語づくりは、もう少し工夫し、その日のワークショップのテーマに近づけていく。学童支援員の場合を例にとると、「僕が大好きな遊びは、けん玉ですが、次の人はどうですか」、言語聴覚士(ST)養成校であれば、「私の4年後の物語」と題して、「私は、○○病院に就職しました。そして」「▽▽で苦労している患者さんを相手にリハビリをしていますが、」「その患者さんは、リハビリでよくなりそうにないと思い込んでいるのか、熱が入りません。そこで、私が考えた作戦は?」という具合だ。

以上の流れを終えると、スタートから30分ほど経過する。
そこで、グループ内自己紹介をする。その前に、小さな紙を配る。紙を三つ折りにして、上段に「身体の中で好きな所 肝臓、眼、右膝・・・」、中段に「所属(学童クラブ名など)」、下段に「私の自慢出来る所 話し好き、バレーボール…」を書く時間を2分ほど取る。その後、この三つを説明しながら自己紹介する。
ここで、グループの輪を解いて、一つの大きな輪に戻る。これまでを振り返り、感想を交流し合うために「不思議なマイクロフォン」をする。マジックペンなど細長くてマイクに似たものを、マイクに見立てて話すのだ。その「マイク」を床中央で落として倒れた向きに座る人に、マイクを渡す。同じようにして、数本の「マイク」を配る。
「このマイクは不思議なマイクです。これを持つと、ここまでの感想が口からほとばしり出てしまうのです。では最初の人からどうぞ」
という具合に進めると、止ることなく感想が話される。そこで、参加者が、他のメンバーと共有する思いが沢山でてくる。終わった所で、5分休憩。そして、次の活動に移っていく。



写真は本文にかかわりなく、着生ラン 3月半ばに開花しはじめたもの 5年以上にわたって、毎年咲いている  


Posted by 浅野誠 at 14:11Comments(0)授業ワークショップ

2024年04月11日

5年ぶりの夫婦カラオケ

 昨日10日、5年ぶりに夫婦でカラオケに行ってきた。コロナ前までは、2~3ケ月に一回の頻度で出かけていたが、久しく途絶えていた。その間、恵美子は、新しくできた友達と数回出かけている。私は、そのうちの一回に便乗して参加した。
急に思い立って出かけた。5年前に出かけていたカラオケ店と同じだ。変わりない。
だけど、長く休憩していると、声の大きさ、音程の取り方、選曲の縮小など、いろいろと下り坂だ。数回通えば、以前の7~8割レベルまで回復できるかな。恵美子も、調子を出すのにしばしてまどっていたが、最後あたりになると、調子に乗ってきた。
私は10曲あまり歌った。ちなみに、曲をいくつか挙げておこう。
芭蕉布 琵琶湖周航の歌 童神 北上夜曲 見上げてごらん夜の星を 浜辺の歌 
恵美子は自宅でもやりたいというので、帰りにマイクを購入した。
 カラオケを終えると、気分爽快で明るい気分になるので、精神衛生にもよい。それに、歌うことは体操と同じ効果がありそうだ。長くしなかったし、大学授業や会議なども激減したので、声を出すこと自体が激減したので、肺活量が小さくなったように感じる。そんなことを考えると、ウォーキングと同じように、健康へのプラス効果が大きいようだ。



猫たちも二人でくっついている
  


Posted by 浅野誠 at 11:04Comments(0)日常生活

2024年04月10日

子ども集団の構造的変容 学級集団づくりの再構築期7

前回4月5日記事に書いたことの進行は、地域における共同体の縮小消滅の反映でもあった。子ども集団を構成するはずの子どもたちは存在しているのだが、子どもたちの姿、子ども集団が地域に見えなくなってくるのは70年代後半から80年代にかけてのことだった。地域の自生的子ども集団に代わって、学習塾、お稽古事塾、スポーツ少年団などが広がっていく。それらは有料組織であり、市場経済そしてマスメディア文化の強い影響のもとに作られた。そして、そうした組織が大人たちの運営管理のもとに置かれ、子どもたちが自治的に運営することが減少していく中、子どもたちは、それらの組織の隙間に自分たちの相互関係を築き始める。また、それらの組織には、子どもたちがかかわる文化特性が反映し、学級で子どもたちが形成するグループは、その文化特性を反映したものとなっていく。それはまた、経済特性を色濃く示す階層性を帯びるものであった。
そうした子どもグループには、家族特性も反映していくが、家族文化が特性に応じて分化していく。地元で農業などの自営業を営む家族、他地域で働く勤め人で戸建てに住む家族、アパート・マンションに住んで移動性の高い家族といった違いは、子どもグループに反映する。なかには閉鎖的で孤立的であることを特性とする家族文化も生まれてくる。
以上述べた子ども集団の構造的変容は、学級という場に組み込まれた子どもたちの変容であり、1970年代以前には前提としていた子ども集団のありようを学級集団が前提にできなくなってきた、ということである。
ところで、民主主義的色彩が濃い市民社会をめざす動向が、戦後民主主義の追求以来、徐々に強まっていく。だが、能力主義的な序列競争の深化、加えて市場社会化の浸透とマスメディア文化の浸透のなかで、市民社会というよりも「大衆社会」の色彩が濃いものへと変容していく。
そのなかで、善きにつけ悪しきにつけ、「しっかりした個人」を前提にして、教師は指導を展開することができなくなっていく。70年代までの集団づくりは、子どもたちが「自生」的に形成している集団がもつ非民主的傾向を民主的なものへと「くみかえ」、そのなかで民主的な個人を育てることを課題にしていた。そのことを前提にするわけにはいかなくなっていく。



写真は本文にかかわりなく、濃霧。 数日前 500m先の奥武島も見えない
  


Posted by 浅野誠 at 08:15Comments(0)教育子育て

2024年04月09日

ピタンガ収穫

 我が庭で収穫量最大の果物はピタンガ。3本あるが、一本は十数年前、もう一本は数年前に植え、もう一本はこぼれ種から出てきた。3本合わせて、毎年数百個以上収穫してきたが、昨年は千個を超えた。今年はどうなるだろうか。真っ赤で可愛い実は甘くて美味しい。3月下旬から5月上旬までの来宅者には幸せのプレゼントとなる。
 色も大きさも形もよく似ていて、アセロラとよく間違えられるが、表面のひだが微妙に異なるし、アセロラよりも甘味が強い。収穫期はアセロラの方が遅い。
 6月に入ると、ライチとドラゴンフルーツの収穫が始まる。


  


Posted by 浅野誠 at 09:11Comments(0)庭・畑

2024年04月08日

単行本「沖縄田舎暮らし」の発刊 私の人生通算262

 ここでの暮らしも2年余がたち、わずかな期間にしては充実しすぎた暮らしを送ることができた。そこで、その体験をもとにした本を出版することになった。またもや屋比久壮実さんがサポートしてくれた。わずかな期間で執筆し、いつも撮っている写真に、屋比久さん撮ったものを加えて一冊にまとめた。章立ては次の通りだ。
第一章自然のなかで暮らす
第二章植物たちとともに暮らす
第三章暮らす
第四章人々との出会い
第五章人々とつながって暮らす
第六章土地探し・建物建築
第七章移住と人生創造
第八章人生創造とスローライフ
なお、サブタイトルは「自然・人々とつながる人生創造」としたが、沖縄の自然に癒しを求めて、沖縄観光。滞在するが、地元の人々とは関係なしに過ごす人が結構いる。そうではなく、地元の人々とつながり、できればともに沖縄を起こしていく営みに参加しほしいというメッセージをこめたものだ。
 本書は書店で販売されることはもちろん、近隣の方々が買ってくれたり売ってくれたりした。本書は、改めて地元の方々への私の「挨拶」にもなった。
 当時、田舎暮らしブーム、沖縄移住ブームが下火になり始めてはいたが、まだ続いており、色々な方々に読んでいただいた。「表紙写真と同じ方々だ」と声をかけてくれた人がいた。久高観光からの帰りだったようだ。
 2,3年後、百名ビーチを散策していると、声をかけてくる人がいた。「本を読んで、沖縄移住を決断したんです。今、沖縄で働き始めたばかりです」という医療関係者もいた。



近くの農道から我が家を見る。この日はタマグスクの丘に霧がかかる。
  


Posted by 浅野誠 at 06:51Comments(0)私の生き方人生

2024年04月07日

リレー式物語づくり 小論ワークショップ22

前回紹介したじゃんけん列車で一つの大きな輪が出来た後、どんな活動につないでいくかは、ここまでの参加者の特性・雰囲気などによってアレンジすることになるが、ここでは一例を紹介しよう。
ワークショップは、予め決めておいた活動を、これまた決めておいた流れですすめるとは限らない。参加者特性、会場の雰囲気でアレンジするからだ。これから書くのは、一例である。とはいえ、ほとんどの場合、ワークショップ冒頭には、参加者相互の関係を築き、共同でつくっていくというワークショップの大黒柱になる入門的な活動をする。そこで、私がお勧めする活動は、共同で(リレー式に)物語(お話)を創る『お話大会』である。じゃんけん列車のように、ゲーム的にやっていくと、競争のようにやる人がでてくるので、競争になりにくいし、協力を紡ぎ出しやすい物語づくりをやるのだ。
その際、参加者数が30名以上であれば、一人一人が順々に一つの輪の流れで活動すると、順番がなかなか回ってこないし、時間がかかり過ぎる。そこで、グループに分けることが多い。グループ数、グループ人数は、どうするかは、参加者数、参加者の「ノリ具合」で、この時判断する。
リレー式物語づくりをする例で話をすすめよう。その場合、10人前後でグループを編成することが多い。そのために、大きな輪のなかの誰かに指示して番号をかける。たとえば、1.2.3.4・1・2・3・4・1・・という番号をかける。そして、「同じ番号の人で集まれ」とする。
こうすると、4つのグループができる。
そこで、「物語をグループの中で作っていきます。最初をしたい人、手を挙げてください。その人から、物語を作って、隣の人にまわしていきます。」
「今朝6時過ぎに起きました」
「起きた後、お茶を飲みました」
「その後、トイレにいきました」
「その後、ご飯を急いで食べました」
「時計を見ると、出かける時間になっていたので、慌てて車に乗りました」・・・
という具合である。最初の人は、別の物語から始めてよい。「今日の帰宅は、5時30分になってしまいました」「我が家は、国道沿いにあります」「私の好きな食べ物は沖縄そばです。次の人は?」といった具合だ。
(次回に続く) 



写真は本文にかかわりなく、車上で眠るニジとアメ
  


Posted by 浅野誠 at 08:58Comments(0)授業ワークショップ

2024年04月06日

猫との散歩途中で、トルコキキョウを大量に頂き配る

 夫婦で猫と海岸・農道を散歩していると、近くのトルコキキョウ農家さんが、商品にしないものを大型ポリ袋に入れて大量に下さる。おそらく千個ぐらいではなかろうか。近所、知人に配りまくる。そして、我が家のいろいろな所に置きまくる。玄関への通路の脇。大皿に並べて室内に並べる。出荷しないものとはいえ、立派な花々だ。
 ある近所では、お返しにパッションフルーツをいただく。また、別のところではトマトをいただいた。このあたりでは、こうした文化というかつきあいが生きている。

 猫との散歩は習慣化しつつある。私の歩数計では3000歩足らずだが、猫にとっては長距離だ。帰ったらぐったりだ。最初の頃は、三分の一ぐらいは、私の肩車だが、今ではほとんど自分の足で歩く。いっしょにいくのは、もっぱらアメ(オス猫)で、ニジ(メス猫)は、一度付き合ったが、途中で終わり。散歩に出掛ける時には、二人とも気づいているのだが、ついてくるのはアメだけだ。
 最初の頃は、道草が多かったが、今ではコースが決まっているので、私たちのすぐあとについてくる。田舎だから、こんな散歩ができるのだろう。出会うのは、3~4人の人だ。初対面の人には人見知りする。子犬と出会った時は、逃げたので、我々が追いかけた。
 出会う人は、珍しい光景だと感心している。犬と違って、途中で排泄物を出すことは全くない。リードも必要ない。平和な光景だ。




  


Posted by 浅野誠 at 08:37Comments(0)日常生活

2024年04月05日

企業社会的秩序・序列競争型秩序への対応 学級集団づくりの再構築期6

1960年代に入って明瞭になってくる企業社会秩序、序列競争型秩序が生み出した権威主義への対応という新たな課題が、成人だけでなく子どもたちを広く深くおおっていくのは、60年代以降である。しかし、この課題に本格的に向き合うのは、時代的にずれ込み、集団づくり当初は鮮明でなかった。「第二版」にはその課題意識が鮮明に提起されるが、実践的課題にする点では初歩的段階にあった。そして1970年代、80年代と、子どもの人間関係のなかに、点数秩序が強力に入り込んできたことへの対応は、巨大な課題として登場してくる。
1960年代までは、健康な明るささえ帯び、「助け合い」を伴っていた「競争」が、70年代に入ると、序列支配の様相をふくらませていく。子どもたちのなかに、点数による権威主義秩序が入り込むことが、年々強固になり、子どもたちの「心」をむしばんでいく。
そんななかで、向上進歩にむけて「頑張って競争する」ことが、「勝って序列を上げることに夢中になる」ということで、競争を自己目的化していく。さらには、「蹴落として」排除していく構図が強化されていく。それは、企業社会秩序が社会のすみずみに浸透していくことと比例し、70年代、さらには80年代にかけて、病的なまでに深刻な事態を創り出していく。
そのなかで、子どもたちの「自尊心」が低下し、自信と誇りを持てない子どもたちが増えていく。そんな子どもたちに対して、1960年代によくなされた「君たちの力でより高いレベルを実現できるよう頑張ってほしい。そこに君たちの誇りをかけてほしい」と、教師が「挑みかかって」も、子どもたちは後ろ向きの反応を示すことが増えていく。誇りへの「挑みかかり」という教育方法の有効性が低下していく。
また、子どもたちの自生的集団が存在していた1960年代までと異なって、点数による序列競争秩序のなかで、人間関係そのものが希薄になり、孤立気味な子どもが増えていく。仲間や友達はある程度の年齢になれば自然に生まれてくるとは言ってはおれない事態が広がる。先に述べたように、つながりをつくる、集団をつくる援助指導が必要になってくる。そうした経験と力量が低下するなかで、陰湿ないじめのような形で人間関係をつくることも広がる。
そうしたことを背景に「やわらかな集団づくり」「ゆるやかな集団づくり」が言われ始めたのは、80年代半ばのことである。
それ以降、企業社会秩序、序列競争型秩序に支配された子どもたちが、それらへの対処、つまりそこから距離をおくこと、ないしは、そこから卒業することの推進という課題が不可欠になっていく。そこで登場したのは、競争に対抗するものとして構想された共同の取り組みであった。



写真は本文にかかわりなく、クフェア
  


Posted by 浅野誠 at 11:11Comments(0)教育子育て

2024年04月04日

沖縄研究の再開 私の研究史90

 愛知在住中の1990~2003年、私の沖縄研究は休業状態にあった。他の諸分野の研究に追われていたからである。そして、第二次沖縄生活スタートとともに、その間の空白を埋めるべく、乱読をすすめる。と同時に、多くの沖縄教育関係者と、研究会などの場で議論をしていく。その中で得た第一印象を、「こじんまり、先を見通した論議の弱さ、企業社会=「ストレーター秩序」から抜け出るためのいくつかの提案――今日の沖縄教育の直感的印象=私の長期作業への踏み台――」『おきなわの子どもと教育』86号2005年にまとめる。章立てを紹介しておこう。
 一 「沖縄教育」研究と私
 二 こじんまり
 三 先を見通した論議の弱さ
 四 企業社会=「ストレーター秩序」の深化
 五 いくつかの提案
(1)知らぬ間に「漏れてきた」異議申し立て的振る舞いを大切にする
(2)漏れでた異議申し立てをいろいろな場で話して、共有する人と出会う
(3)自己を守るための最低の権利の行使として、忙しさから脱却する行動を開始する
(4)多様な発見の場にかかわる
(5)学校常識をあらためて問うてみる
(6)「小さな物語づくり」とその公開=交流
(7)提案的に教育活動を行う
(8)<沖縄的生き方>を探る
(9)論議を広げる
 これは、当時の学校教師をはじめとする教育関係者への私のメッセージでもあった。
 だが、応答する教育研究を論議する組織・場が弱体化していたのは、とても残念であった。私が沖縄から離れた一九九〇年と比べると、歴史の退却とでもいえそうな状況が広がっていた。また、教員の精神疾患による休職事例が、そのころから広がっていた。対照的に、全国学力テストへの迎合的動向が強まっていた。そのころでは、地方新聞社の取材に応じることが私の大きな発言機会となっていた。
 また、九〇年代に結成された沖縄教育学会が、かなりの会員を集めて研究集会を開いていたので、そこにも出向いた。だが、期待とはうらはらに、同学会は、〇〇年代半ばには閉会してしまった。
 こうした踏み台上の試行錯誤をもとに、00年代末になると、本格的沖縄教育論執筆へと進む。その手掛かりとなる作業として、2009年後半~2010年初めに『沖縄タイムス』紙に長期連載した「沖縄おこし 人生おこしの教育」がある。

 ここまで2000年代までの私の研究史を綴ってきたが、しばらく休憩した後に、2010年代以降の研究史について書き始める予定だ。



写真は本文にかかわりなく、花キリン  


Posted by 浅野誠 at 16:44Comments(0)世界・研究

2024年04月03日

津波警報 コンピューター不調 今年度の外での仕事はほとんどゼロ

 3日9時、スマホが突然津波警報を知らせる。消防車が海岸付近を放送して回る。避難所に指定されている公民館に避難する人が集まる。公民館と同じ高さ20~30メートルにある我が家は、一応安全ところだ。五時間半以上して、警報が注意報に替わる。

 1日午前、コンピューターが突然不調。原因不明。6年も使っているためか。一週間前、ウィンドウズ11に切り替えた余波か。
 時間をあけて起動すると、無事動き出す。しかしインターネットにつなぐと、IDとパスワードの再入力を求められる。最近始めたものは、手元に書き留めて置いたものがあるので、無事アクセスできる。しかし、かなり以前から使っているものは、IDもパスワードが見つからない。いろいろと調べるが発見できない。とくに困ったのは、ブログ。丸一日不明のままでアクセス不能。一時は、これでブログを「終わり」にしようか、とさえ思う。
 ところが、ブログ記事の「私の人生」を書くために参照しているブログ記録ファイルを開けると、一番前のページにIDもパスワードも発見。17年前のファイルだ。大喜び。そこで、予定していた記事を合わせて2日に入力する。
 いずれにしても、いろいろとガタがきているコンピュータを買い替えなくてはならないと思う。私のコンピュータやITの「顧問」をしている義甥に緊急ヘルプを求めたら、明日来てくれることになった。こんな際に大助かりだ。

 話しは替わって、近年、外での仕事はコロナで激減したが、コロナ終結後も少ないままだ。昨年からは、沖縄リハビリテーション福祉学院言語聴覚学科の「対人援助」の4回授業のみになった。それにしても、77歳の私に授業をさせてくれるのは、ありがたい話だ。この授業は、専門の授業というのではなく、対人援助・コミュニケーションのワークショップで、専門家として患者に接する際の基礎力量を養うために、そして新入生が学校になじみ、クラスメイトとの関係を深めるためのきっかけになる面を強くもつ。それにしても、学科開設以来20年にわたって担当してきた。思い出がつながる授業だ。
 仕事めいたものが、この他にもう少し何かあればうれしいと思うが、なかなかそういう話にはならないのが、77歳の私周辺の実情だろう。
 だから、外出の9割以上を占める買い物・テニポン・ヨガ・医者・恵美子のアッシーという日常的な外出さえ貴重に感じるこのごろだ。だから、訪問者が多いのは嬉しいことだ。



写真は本文にかかわりなく、トウワタ
  


Posted by 浅野誠 at 13:07Comments(0)日常生活

2024年04月02日

ブログの活用 私の人生通算261

 2003年に開設したホームページは継続していたが、アクセス数はわずかなものだった。私の出版を依頼していた屋比久壮実さんが、ブログ利用を熱心に進めてくれた。ということで、2007年2月に、ti-daブログに私のサイトを開設する。ti-daは、沖縄に本拠地を置き、地元発信に力をいれていた。
 ブログ名は、「田舎暮らし 人生創造 浅野誠」とした。当初は、庭畑、周りの自然、そして出会いなど、「田舎暮らし」を発信するものが中心で、ブログ説明には、「玉城で田舎暮らししながら、人生創造を楽しむ浅野誠のブログ。ハーブ、庭・畑、自然、出会い、集い、玉城・南城、沖縄、生き方・人生、教育・生活指導、ワークショップ・授業、若者、学生、健康、スピリチュアリティなど、いろんな情報発信を、随想風にします。」と書いた。
 スタート直後の記事を並べておこう。
 2007年2月22日 ブログスタート よろしく
        22日 確定申告
        23日 ルッコラ イタリアンパセリ
        23日 ナスタチウム(キンレンカ)
        23日 近隣の住宅建設ラッシュ
        23日 八重瀬公園
        23日 歌う会
        25日 中山海岸清掃
        25日 卒業生からのメール もう一度私の授業を受けたい
        25日 沖縄国際大学での授業「特別活動演習」 学生の感想

 こんな風に、日常の出来事をアットランダムに掲載していった。それでも結構アクセスがあり、記事によっては100を超え、なかには1000を超えるものもあって自己満足し、その後十数年間、ブログの世界にのめりこんだ。
 それまでの「原稿書き」(当初は原稿用紙、ついでワープロ書き)が、徐々にブログ書きへと変わっていく。10年代後半ぐらいからは、ブログ掲載記事をもとにして原稿化することが増えていく。 
 しかし、当初のブログ容量は小さく3~4年で満杯になって、古い記事から削除しなくてはならなくなる。そんなころ、膨大な容量のブログ・ホームページ掲載を可能にするジンドゥー(JIMDO)が登場する。それを発見し、ti-daブログに掲載した記事をカテゴリ別に集約編集してファイルを作成し、ジンドゥーに設置したホームページ「浅野誠・浅野恵美子の世界」に掲載することにした。
 そんなころの2013年にti-daブログに掲載する私のページの名称を変えて、新たなブログ「沖縄南城・人生創造・浅野誠」を立ち上げた。その説明の2023年版には、「沖縄県南城市の海辺近くの森に囲まれて暮らすこと約20年。美しい景観の中で、蝶、野菜・ハーブ・果物、木々につきあう日々。時々出かけて、いろんな方々と楽しくつきあう。日々の生活の流れの中心は研究執筆。人生・生き方、沖縄、南城、老いなどなど。」古い方のブログは、アクセス数がゼロに近づいたら、閉じようと思っていたが、2020年代半ばに近づいても、アクセスが10を上回る日が続き、閉鎖の機会がつかめないまま、今日に至っている。
 そして、新ブログを始めた頃になると、ti-daブログの容量制限も飛躍的に大きくなり、記事削除の必要がなくなっていく。



写真は本文にかかわりなく、カメムシ? 春になり、多様な昆虫が我が庭にあらわれる  


Posted by 浅野誠 at 19:27Comments(0)私の生き方人生

2024年04月02日

じゃんけん列車から始まるアイスブレーキング 小論ワークショップ21

今回からは、ワークショップ進行の具体的過程に即して、論を進めていこう。連載9回目に予告したように、私がコーディネイトするワークショップでしばしば展開するアクティビティ例を紹介することを通して述べていこう。
最初は「じゃんけん列車から始まるアイスブレーキング グループづくりや物語づくり」についてだ。
私は、開会時点で、氏名など私自身の自己紹介を1~2分で済ませ、早速ワークショップに入ることが普通だ。いろいろと話をすると、参加者に、「またいつものように、講師がいろいろと話すのだろうから、聞く役目に徹しよう」という気持ちにさせてしまうからだ。自らが参加してつくり上げる集まりということを、最初から鮮明にするのだ。
その最初は、「じゃんけん列車。よーいドン」という声掛けだ。 
隣り合う二人でじゃんけんをし、負けた人が勝った人の後ろに付き、「列車」を作り始める。さらに、「列車」の先頭同士でじゃんけんをして、「列車」を長くしていく。全体が一つの列車になると、先頭は最後尾に付き、一つの大きな輪をつくる。人数によるが、この間30秒~3分ぐらいだ。必要時間は、参加者の日頃の仕事の性格が反映しやすい。早い例をいうと、学童支援員、保育士、看護師などだ。学校教師の場合、低学年担任が早く、高校教師ともなると、少々時間がかかる。
このなかで短時間であるが、会場の雰囲気は、活動的・リズミカル・明るい雰囲気が広がっていく。
では「進行のコツ」を書いていこう。
・じゃんけん列車を知らない人がいて、隣に尋ねたり、全体の場に質問を出す。質問に対して、私は「無視」して返答しない。やり始めた人の動きをみれば、「あっ、そうか」とどんな人でも10~20秒以内に動き出す。質問に応えていると、時間を食うし、動き出した雰囲気にブレーキがかかる。それに、参加者間で教え合うことで、参加者相互の自然なつながりが生まれていく。
リズム、雰囲気を大切にするのだ。
・ワークショップに集まってきた参加者は、多少の知り合い同士が隣り合って座るので、相互に教えやすいし、活動スタートで、知り合いが近くにいれば、安心感もある。徐々に知らない人たちとのじゃんけんへと広がっていく。それが参加者間のつながりを広げる上で有効だ。一つの大きな輪になった際には、親しい人が近くに多くなりやすい。
出来上がった輪をもとに、活動は次のステップに移るが、次回書こう。



写真は本文にかかわりなく、くっついて寝ていたアメ(オス猫)に鼻をひっかかれた私
  


Posted by 浅野誠 at 13:58Comments(0)授業ワークショップ

2024年03月31日

沖展鑑賞 元受講生・同僚の久しぶりの訪問 行方不明の猫を押し入れで発見

 この下旬は、出会いや「事件」が多い日々だった。
 28日記事で書いたように、息子家族が帰った後も物語は続く。25日には、近くの知り合い親子と沖展を見に行く。3月初めまでに決まっていたスケジュールはこれだけだった。その後、いくつもの出会いのスケジュールが舞い込んだのだ。沖展は、コロナ前まで毎年出かけて楽しんだ。ということで、今年は久しぶりのこと。我々「老夫婦?」を助けてくれる近隣の親子が連れて行ってくれる。私は、絵画と彫刻を中心に楽しむが、その方は、最近書道の師範の資格を取って、書道家の道を歩み始めた。そこで、書道の見どころを教えていただいた。墨の濃淡の配置などである。こういうポイントを知らない私には、すべて同じように見えてしまう。今後の学習で、さらに深めていきたい。
 かつての同僚や知人の出展がぐんと減って、寂しい思いもする。帰りに一緒に食事をする。小学6年になる子どもとの会話が楽しい。
 
 27日には、1970年代に私の授業の受講生で、その後、大学同僚となった方が、我が家来訪。久しぶりのことだ。退職後、いくつもボランティア活動を展開。いくつもの都市公園で紙芝居をしている話が興味深い。かつては、近くで田舎暮らしをしていたが、今は免許を返納し都市暮らしをしている。今回もバスで来訪された。老年期の生き方の貴重なサンプルになりそうだ。

 彼が帰った後、ニジ(猫)が忽然と行方不明になる。いろいろと探すが、13時間ほど行方不明。繰り返し探した後で、和室の押し入れを念のため開けると、布団の上にいる。息子家族が和室を使い、布団を使ったので、その「匂い」に引き寄せられたのではないか、と推理する。

 28日には、恵美子を歯医者まで送る。私は来週なので、今後の予約の際は、二人同時刻にお願いしたいと、受付で話す。すると、私の予定を繰り上げて、その日に同時にやってくださる。ありがたい。
 これで、年末から立て続いた医者通いが区切りになる。次は、5月以降の眼医者などが、ゆっくりした間隔であるだけとなった。
 かくして、ゆったりした老夫婦生活に落ち着きそうだ。



写真は本文にかかわりなく、庭のミニバラ  


Posted by 浅野誠 at 14:25Comments(0)日常生活

2024年03月30日

発達と教育・指導 個人発達と集団発展 学級集団づくりの再構築期5

こうして、集団の自治の追求という学級集団づくりの課題に、「個人の育成とつながりの育成」という課題を並行して展開する構図が、1980年代から1990年代に浮上してくる。前者の展開のなかで、後者が含まれ進行していくというのではなく、両者を意図的に追求するということである。
ここで個人の発達に焦点を当てて考えてみよう。集団づくりの特性は、個人発達を人間関係ならびに集団とのからみのなかで実現させていくことに、教師の指導を集中させて解明構築していくことにあった。つまり、個人の発達を解明して、発達課題を明らかにすることにとどめず、発達課題を実現するための教師の指導課題ないしは教育課題を明らかにしつつ、指導方法・教育方法を提示するアプローチをとっていた。それは、個人の発達をサポート(援助・支援)することにとどまらず、個人の発達をつくりだす教育課題を明確にしようとするものである。
そして、個人の発達が人間関係・集団の発展の中で生み出されることを考えて、個人にかかわる教育課題は人間関係・集団にかかわる教育課題と構造的にからみ合っていることを原理にして構想したのである。
私が「子どもの発達と生活指導の教育内容論」(1985年明治図書)で示した構想は、そうした教育課題を明らかにしようとする試みである。こうしたことが、80年代を通して、明確になっていく。
人間関係・集団にかかわる教育課題として中心的に追求されたのは、民主的人間関係・民主的集団を築くことであった。そこには、いくつかの課題が併存していた。
まず戦前支配的であった権力的権威的あり方に対して、民主的ありようを追求することであった。戦前の軍国主義的国家主義的なものは、建前としては消えるが、実質的には残っているものが多くそれへの対処があった。たとえば、家父長的なありようは長期の生命力を保っていた。民主的組織といわれるもののなかにさえも、権威主義的な要素が強く生き残っていた。



写真は本文にかかわりなく、着生した胡蝶蘭  


Posted by 浅野誠 at 14:03Comments(0)教育子育て

2024年03月29日

ワークショップ・シリーズの作成発刊  私の研究史89

 00年代は、ワークショップで展開する多様なアクティビティの創作を大量に行っていた。おそらく数十ないしは3桁にのぼるだろう。それらをもとにワークショップのプログラムを作って、ワークショップを各地で展開した。そこで、それらを集約し、小論を添えて「浅野誠ワークショップシリーズ」を刊行することにした。といっても、出版社経由で売れる本ではないので、自費出版することにした。ここでは、タイトルだけを紹介するが、各冊子の詳細は、このブログ連載の「小論ワークショップ」の12,13(いずれも2024年2月掲載)を参照されたい。
 №1 ワークショップの作り方 進め方 2010年
 №2 人間関係を育てる 2010年
 №3 授業づくり(小中高校) 2010年
 №4 授業づくり(大学) 2010年
 №5 人生創造 2010年
 №6 人間関係・人生創造・世界発見・共同活動創造 2012年
 №7 楽しいワークショップ 2015年

 なお、研究的論稿として、依頼にもとづいて次のものなどを執筆した。
「ワークショップ型授業へ」日本教育方法学会編『学習意欲を高める授業』図書文化2006年
「生徒がのる授業――イメージとワザ」『高校生活指導』172号2007年
「共同の発見・創造としての学びを」『生活指導』2007年7月号
「ファシリテーションとワークショップ」『教育』2019年8月号

 2010年代は、大学授業および学童支援員研修の場で、ワークショップ実践を継続していく。それは、体力低下に伴い、また20年代はじめのコロナ禍で減少していくが、2024年頃まで続く。



写真は本文にかかわりなく、鉢植えバラ  


Posted by 浅野誠 at 15:40Comments(0)世界・研究

2024年03月28日

息子家族来る 近隣の方々との語り合い たくさんの出会い

 23~27日とたくさんの出会いがあり、私たちを喜ばせる。数件の出会いが殺到し、スケジュールを忘れるなど、混乱のなかだが、充実の日々だった。
 まず息子家族5人の来宅。3人の孫が進級・卒業・入学し、全員が大学生・院生になる。記念品の贈呈。彼らからは大いなる励ましをいただく。猫たちも大喜び。この際に、シャワーを息子夫婦たちと入れる。その晩、「アメ」は嬉しかったのか、息子の腹の上で睡眠。久しぶりに、私たち二人から離れて寝る。コンピュータ・インターネットの私たちにとっての難題も解決してくれる。孫たちは、生まれてから成人する今まで、ほぼ毎年そろって訪問してくれる。これは、私たちにとっての自慢話だ。
 有り余るほどの喜びを皆で私たちに与えてくれる。偶然も重なり、恵美子の姉親子が来宅。皆元気な姿でハッピーだ。遠方に暮らしているが、励まし助け合って、生きているという感じが深まる。息子家族滞在時は、私の食事づくりも、しばし休止状態になる。かれらのサポートは物理的なものだけでなく精神的な面でも大きい。夫婦で喜び合った。
 そんな時間を楽しんでいる折に、約束の会の確認の電話が入る。半月ほど前に約束していた会の日時をすっかり忘れていたのだ。3家族の夕食会だ。急いで、私の「伝統料理、煮つけ」を作る。そして、50年近く前の卒業生が迎えに来宅。3家族のうちの一つは、私の卒業生の家族。19年前に我が家を訪問されて、進路相談をした経緯がある。その当人のパートナーの両親が、もう一つの家族。数年前に、沖縄に移住され、この2家族がすぐ近くにお住まいになられた。そのうちのおかあさんが、3年ほど前から恵美子と親しくなったというのだ。偶然が折り重なって、すごいことになっている。
 大盛り上がりの3家族3世代の十数人の集まりとなる。こんな風にして、私たちのつながりが増えていく。
(31日記事へと続く)



写真は本文にかかわりなく、オクラレルカ  


Posted by 浅野誠 at 19:02Comments(0)出会い・集い

2024年03月27日

買い物など 私の人生通算第260

 今回は第二次沖縄生活スタート以降の日常生活の話題。
 買い物先は、車で5分のJAスーパー玉城か13分の大里在のJAスーパーアトールだった。このあたりは、JAの力が強かった。ガソリンスタンドも、近くのJAで、現在に至るまで20年間使い、自動車のガソリンも、湯沸かし用の灯油も購入してきた。
 事情が変わるのは、2010年代半ばになって、イオンとサンエーのスーパーが出来た時からだ。それ以降、スーパー激戦区になる。2024年には、車で8分のつきしろにコストコが開業する。
 スーパー過剰のなかで、近くの小売店は次々に閉鎖される。それに追い打ちをかけたのは、我が家から那覇に向かう道路沿いにコンビニの建築ラッシュが始まったことだ。数軒が新設された。競争に敗れて閉店する店もあるほどだ。
 こんななか、我が中山集落の小売店はゼロになる。2020年ごろから、沖縄そば店、カフェができるが、地元向けというよりも、観光客や都市住民向けが中心だ。00年代までは、知念半島のホテルは一軒だけだったが、やがて閉店する。近くの厚生年金施設は10年代に入ってユインチホテルに転換した。そこの入浴施設はよく利用してきた。厚生年金時代は地元客がほとんどだったが、ホテル経営になってからは、料金が2倍以上になったこともあって、地元客は激減し、観光客中心になった。宿泊施設が少ないことと、夕食を取れるレストランが少ないこともあって、観光客は那覇周辺のホテルを利用し、夜になると知念半島の客は稀になった。
だが、10年代も半ばを過ぎると、ペンションが相次いで開業し始める。また、エアB&B の宿泊施設が次々とできてくる。中山集落内にも登場するが、隣の字玉城にはたくさんできる。最近では、少々高値の感じがする。一泊7万円の富裕層向けホテルもできる。
 このあたりは、観光スポットということもあって、関係施設が増えてきているのだ。00年代には、観光タクシーを利用する人が多かったが、10年代に入ると、レンタカーが増え、近くの道路の半分近くをレンタカーが利用するようになる。それも外国人が多く、スマホ片手に、道を聞かれることが増えて来た。

 ATMは00年代には郵便局などに限られていたが、10年代に入るとスーパーやコンビニにも設置されるようになる。銀行は、琉球銀行佐敷支店が閉店してゼロになり、与那原や八重瀬の支店を利用することになる。近くの金融機関は郵便局とJAだけとなる。

 クリニックや病院は、歯科医以外は少なかったが、徐々に増えて来た。対照的に高齢者施設は多く、地元の人だけでなく、那覇など都市の方々の利用者が多そうだ。 



写真は本文にかかわりなく、ジャボチカバの花 幹から直接開花する
  
タグ :買い物


Posted by 浅野誠 at 18:13Comments(0)私の生き方人生

2024年03月26日

(続)実践記録共同執筆共同検討のワークショップ 小論ワークショップ20

(前回から続く)
 実践記録執筆も実践検討も、授業の受講生も学童支援員も、ほぼ初体験の作業だ。とはいえ、日々子どもたちと深く活動的にかかわっている支援員には、難しい課題とはいえない。と同時に、数人グループでポストイットに書き込む形で進めると、他のグループメンバーの実践も推理で、実践の具体的展開を書き込んでいくことは容易だ。そこで、リレー式にポストイットを貼り付ける大判の紙を回していき、他人の実践記録についても、推理によって記入したポストイットを加えていく。
 こうして、一周して自分の所に回ってきたものをチェックし、必要な修正加筆していく。
 こうすると、15分ぐらいの実践時間のものが、50枚近くのポストイットの連なりとなって明らかになっていく。他者が書いたものに大きな間違いは滅多になく、むしろ自分では気づけなかったことが加えられて、実践記録がよりリアリティに富んだものになっていく。
 こうして、ほぼ1時間で参加者のほぼ全員が実践記録を書きあげる。そのなかから、参加者の関心が高そうな実践例を含むものを選んで、検討討論していき、実践をより一層レベルアップしていく。
 自分の日常の営みを分単位(時には秒単位)で書いていくなかで、自分の営みの特性についての発見が多い。良い点でも要改善点でも、自分のクセのようなものを発見していき、次の実践において、さらに生かしたらよい特性、また改善を実行に移していく。また、個人作業としてだけでなくグループ作業で進めることで、実践におけるチームワークづくりに寄与していく。
 ときには、「クラブ便り」に活かして、子どもたち保護者と情報を共有して、多様な前進を創り出すこともある。



写真は本文にかかわりなく、ステビア
  


Posted by 浅野誠 at 15:06Comments(0)授業ワークショップ