(続)全生研での出会い 出会った方々36

浅野誠

2025年04月10日 09:25

 1972年に沖縄生活を始めて以降1970年代には、全国各地とのつきあいは全生研を通してのものが中心となった。沖縄移住に伴い、全生研の常任委員はおりて、遠隔地にいてそれに似た役目をする指名全国委員となり、1990年に再び常任委員となるまで続いた。
 そこで、全生研への会合参加は、年一回の全国大会,年二回の全国委員会、その他の研究会などであった(70年代には、年に1~3回程度)。
 そんな機会に、当時40代前後の全生研の中心的担い手の方々にいろいろとお世話になった。記憶に強く残っている方は、服部潔さん、横川嘉範さんなどだ。お二人のご自宅には泊めていただいていろいろと語り合った。横川さんは被爆者でもあり、その経験をもとに平和教育で重要な役割を果たしておられた。私の長男がなくなった折にも丁寧なお手紙をいただいた。生と死を深く見つめ考えておられる人ならではの文面だった。
 服部さんとの行き来はとても多く、私の脳から記憶が溢れ出すほどだった。全生研の出版企画に深くかかわっていた彼からは、私には過大な原稿依頼がしばしば舞い込んだ。お嬢さんが琉球大学に入学したこともあって、沖縄にもたびたび来られた。
 無論、竹内さん宅もしばしばお邪魔し、泊めていただくことが多かった。70年代は年一回ぐらいあった。そのためもあって、竹内静代さんにもいろいろと世話になった。静代さんが命名してくださった「飲んべえ」の私の相手を下戸の常一さんができないものだから、静代さんが務めてくださることもあった。全生研大会や全国委員会の会合後の、夜の飲み会は、私にとって、命の水を飲む機会ともなっていた。大西忠治さんとの付き合いも、その折のことが多かった。大西さんが茨城の茗渓学園勤務に移ってからは、そこにもお邪魔し泊めていただくことがあった。



写真は本文にかかわりなく、モクマオーの花 地味だから,気づかない人が多いかもしれない 

関連記事