同じ学科・研究科の院生たち 出会った方々32 

浅野誠

2025年03月21日 14:43

 前回紹介したもの以外で記憶に残る演習の一つに、五十嵐顕さん担当のものがあった。それは、ロシア語文献であるグムルマン・コロリョフ「教育学原論」を共同で翻訳する作業ともなるものだった。レベルに差はあるが、ロシア語が多少なりとも理解できる大学院生が参加していた。そこで何人かの人と親しくなった。一人は、ロシア語が堪能であった森重さんである。私の訳したものをフォロウする役目も取っていただいた。また、当時早稲田大学院生だった沖縄出身の照屋敏勝さんとも知り合い、その後の長い付き合いの最初の出会いになった。
 この演習での出会いがきっかけになって、修士2年の修論執筆作業に集中していた期間を、野沢温泉の民宿の五十嵐さんの隣の部屋で、一か月余り日々を共にさせていただいた。五十嵐さんも私も温泉好きで、毎日のように、朝10時ごろから、野沢温泉の公衆浴場巡りをしていた。その五十嵐さんとは、1990年の私の中京大学赴任とともに、同僚となる偶然が待っていた。同様に、深谷鋿作さん、中内敏夫さんとも同僚になったのは、不思議の極みだろう。
 そのころの大学院では、院生同士の教え合い学び合いが日常化しており、修士論文執筆なども院生同士の支え合いが大きな比重を占めた。そのころ記憶に残るのは、須藤敏明さん、箱石さんだ。須藤さんには、沖縄赴任が決まって船便で沖縄に向かう際に、晴海埠頭まで荷物を送っていただいた。
 私の修士論文は、宮坂哲文著作集に収められている戦前期の生活指導・特別活動分野の歴史研究をベースに、それらにおける自治活動の焦点を当てて取り組んだものだった。その作業に当たっては、教育学部図書室の職員、さらには国立国会図書館の職員の方々の大いなる協力を得た。
 また、博士に進級するころ、国民教育研究所の研究合宿に、記録係のような役割で参加させていただいた。森田俊男さんとの出会いもその時だが、沖縄教育研究の先駆者位置にあった彼の刺激を受けたのは、私と沖縄との縁ができた時と同じころだった。



写真は本文にかかわりなく、定番の散策で海岸に出るための防風林をくぐりぬける通路

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