学会などとのつきあい 出会った方々35
前回書いた全生研大会のころには、恵美子と一生のパートナー関係になると決めていたので、全生研大会に沖縄から参加していた宮城ヨネさんをはじめとする何人かとお会いして、特別な気持ちを抱いた。これが沖縄教師たちとの出会いの最初だ。
その後、全国各地で開かれる全生研の研究会に参加することが始まった。全院協での旅仕事を含めて、全国各地を回りながら仕事をしていく私のスタイルは、その後40年ほど続く。
大学院生を含め若手研究者は、いくつかの学会に所属して、それらとかかわりながら研究活動を進めるのが通例だ。しかし、私は学会つきあいが少ないまま1970年代を過ごした。1972年沖縄移住のころに加入した日本教育学会、そして、琉球大学で日本教育史を担当することに伴い加入した教育史学会、そしてその後しばらくして加入した日本教育史研究会、さらに生活指導分野が教育方法分野にくくられることもあって加入した日本教育方法学会などと、かろうじて付き合っている程度だった。それらの学会への参加は、1970年代を通して総計してもおのおの1~2回程度だった。
一度だけ、日本教育学会の自由発表で、「琉球処分」前後の沖縄教育について発表したが、10分発表5分質疑というなかで、不全感を強く残す参加となり、「学会嫌い」の状態に陥っていた。対照的に、日本教育史研究会に参加した際に、じっくりした討論が展開されているのに、興奮さえ覚えた。その折出会った石島庸男さんと話が弾んだ。かれとは1980年代にはいって日本科学者会議教育問題委員会でご一緒し、充実した思い出を残す仕事をした。
写真は本文にかかわりなく、大雲閣の花 幹上部に小さく写っている
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