伊波普猷におけるアイデンティティ 沖縄随想17
前回紹介したことに続いて、外間守善はさらに次のようにも指摘する。
「個別科学の成果であることを認めることによって、沖縄のもつ諸特性を科学的に認識すべきことは当然のことであろう。そこでは、国家とか、民族とかいう概念からはまったく解放された純粋に学問的な目が注がれなくてはならない。日本とか日本民族とかいうような国家的、民族的な枠組みから思考するのではなく、沖縄という地域レベルでの土着的な場から思考する学問的方法論なのであり、伊波の発想の基本もそこにみることができる。」p512
こうした発想は、私も受けついでいる一人といえよう。だが、沖縄という地域レベルに焦点を絞りこむことは、視野を固定化し狭隘にする可能性を生み出す。そうしたなかで、「そもそも沖縄は本来~~だ」「沖縄はもともと~~だ」という沖縄本質主義的な発想を含んだが発言が生まれることがしばしばある。
そうした視野限定ないしは視野狭窄を防ぐうえで、沖縄外からの視野を含みこんで沖縄をとらえることが必要になる。それは沖縄をめぐって発言する個人にとって不可欠なものである。
沖縄住民(ウチナーンチュ)誰しもが、生きた時代状況の中で体験する、日本政府・薩摩・中国・旧琉球王国などがからむなかでのものに加えて、伊波の場合、成人移行期において沖縄外の京都や東京で生活を送り、沖縄と自分自身を対象化して見つめなおすことをかなりの期間もち、そこでの学究生活を送ることで、その視野と思考を一層広げ深くしていった。
もう一つ別の検討視点がある。それは、19世紀後半という移行期の時代変動の中で、個人がどのような社会的位置(ないしは身分的位置)にあったかという点からの検討である。その社会的位置が上昇ないしは下落という社会移動を容易にするものであったかどうか、ということだ。それは、地理的移動を伴うこともあった。地理的移動の中で、それまで生活していた世界を越えた体験と視野を持つかどうか、ということである。
伊波の場合、裕福な那覇士族であり、祖父母や父母、そして親族などが生み出した環境が、普猷の社会移動を促進するものとなった。類似例としての比嘉春潮の場合、首里から西原に「下り」、地方役人層を手助けする士族の環境の中で生育している。謝花昇の場合、東風平の有力な地方役人層に生まれ、当時としてとびぬけて先駆的に東京遊学の機会を得ている。
こうした19世紀後半から20世紀に生きた人々が、当時としては図抜けて、広く深い視野を確保し、自己の個人としてのアイデンティティを獲得しつつ、沖縄のアイデンティティ創出の物語の創作者となっていく。
写真は本文にかかわりなく、シーカーサーの花
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