近代そのものへの疑い 科学技術万能論の問い直し 私の沖縄(歴史)研究26

浅野誠

2024年10月05日 14:33

 ここで、少し視点を変えて考えてみよう。
 「再帰」「自己展開サイクル」も含めて、「近代」というものの捉え方そのものを疑うのも、一つの視点だ。仮に、右上がり思考が近代につきものであるとし、右上がり思考とか近代とかに代わる思考を求める発想がありうる。
 1980年代を境目にして、右上がり思考に疑問符が付き始めたが、2020年代の現在、経済上は、定常ないしは縮小動向が支配的になっているにもかかわらず、右上がり思考にしがみつく動向は根強い。沖縄でもその傾向は強い。沖縄で根強い「本土に追いつこう」という発想は、「右上がり思考」に絡まれている東京を中心とする動向にしがみついている。経済縮小につながる人口減少傾向は、都道府県単位でいうと、東京(および首都圏)と沖縄だけが例外とされてきたことが、その思考の背景にあるのだろうか。その沖縄でも、自然減が始まり、社会減がそれをカバーする状態になり、カバーしきれずに、トータルで減少していく流れに入りつつある。にもかかわらず、無意識のうちに「右上がり」思考が定着し、そこから抜け出る志向が希薄のままである。
 この右上がり思考から抜け出すことを、近代から抜け出すことと結びつける思考が存在しうるといえよう。「第二の近代」とか「再帰的近代」とかは、オールタナテブな近代なのか、それとも近代そのもののオールタナテブなのか。そうした検討視野をもって考えてもよい時代になっているといえる。
 経済的な定常・縮小だけでなく、深刻な地球環境問題が、こうしたことの検討を求めている。
また、地球環境問題の打開において、政治経済アプローチと並んで、科学技術アプローチが用いらることが多い。その科学技術アプローチは、近代への転換、近代の継続の中で生まれ増大してきた。そして、「現代の難題は、科学技術が解決する」という科学技術万能論の風潮が広く深く存在している。
それだけに、近代を問うことは、科学技術アプローチを問うことでもあろう。近代の問い直しは、科学技術の問い直しを浮上させ、科学技術万能論を相対化していく。また、科学技術が深く結びついている教育の問い直しにもつながっていく。
現代を覇権的にリードしているアメリカ(近年、中国もその色彩を強めている)では、科学技術によって、地球環境問題をはじめとする現代の諸問題の打開を図る動向が強力である。「地球がだめなら、宇宙に脱出しよう」という発想は、その象徴だろう。そこで、宇宙開発、軍事、情報技術、医療などへの膨大な支出をしている。



写真は本文にかかわりなく、ウッチン(ウコン)の花 

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