2024年11月21日
(続)1970年代に出会った沖縄教師たち 語り合いと共同創造 出会った方々7
沖縄生活を始めた1972年から、教師たちとたくさん出会った。そのころ、知識を啓蒙的に示すありようではなく、子どもたちと共同してつくることを軸にした授業、そして生徒会活動など生徒の自治的活動をおしすすめることを強調していた私だった。それに積極的に応えて、共同で沖縄教育を作り上げていった方々が印象深い。
吉浜忍さんはその一人だが、高校教員では比嘉靖さんでそうであり、小中学校では、宮城ヨネ、平川節子、富田哲さんをはじめとする方々、大学では田港朝昭、平良勉さんなどがそうであった。これらベテランとも言えそうな方々だけでなく、吉浜さん、比嘉さんのように私と同世代ないしは少しだけ年長年少の方々も多かった。山城正輝、知花マサ子、下地哲雄、平良信明、中村透、藤原幸男、小田切忠人さん、あげれば数十名を超しそうだ。
当時、「酒豪」であった私は、そして飲み会=議論会であった当時の風潮もあって、長時間の語り合いを繰り返していた。そのなかで、私が編集に深くかかわっていた「民主的な子をそだてるために」「おきなわの教育実践」への投稿をしていただいた方々が多い。これらの方々については、回を改めて書くことになろう。
共同創造というと、70年代は文化表現にのめりこんでいた私だった。全生研の家本芳郎さんの池上中での実践・著書を大いに参照して取り組んでいく。当時私は池上中での実践のBGM付きスライドを沖縄各地で何回となく上映したが、そこから実践イメージをつかんで各学校で取り組んだのが、富田哲さんを中心にする中学校教師たちだった。体育館ステージに超大型貼り絵をセットする取り組みは、当時爆発的に広がり、50年後の今でも、各地の学校で展開されている。
写真は本文にかかわりなく、蛹になりかけのいもむし
吉浜忍さんはその一人だが、高校教員では比嘉靖さんでそうであり、小中学校では、宮城ヨネ、平川節子、富田哲さんをはじめとする方々、大学では田港朝昭、平良勉さんなどがそうであった。これらベテランとも言えそうな方々だけでなく、吉浜さん、比嘉さんのように私と同世代ないしは少しだけ年長年少の方々も多かった。山城正輝、知花マサ子、下地哲雄、平良信明、中村透、藤原幸男、小田切忠人さん、あげれば数十名を超しそうだ。
当時、「酒豪」であった私は、そして飲み会=議論会であった当時の風潮もあって、長時間の語り合いを繰り返していた。そのなかで、私が編集に深くかかわっていた「民主的な子をそだてるために」「おきなわの教育実践」への投稿をしていただいた方々が多い。これらの方々については、回を改めて書くことになろう。
共同創造というと、70年代は文化表現にのめりこんでいた私だった。全生研の家本芳郎さんの池上中での実践・著書を大いに参照して取り組んでいく。当時私は池上中での実践のBGM付きスライドを沖縄各地で何回となく上映したが、そこから実践イメージをつかんで各学校で取り組んだのが、富田哲さんを中心にする中学校教師たちだった。体育館ステージに超大型貼り絵をセットする取り組みは、当時爆発的に広がり、50年後の今でも、各地の学校で展開されている。
写真は本文にかかわりなく、蛹になりかけのいもむし
Posted by 浅野誠 at 14:54│Comments(0)
│私の生き方人生