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2024年11月16日

1970年代に出会った沖縄教師たち 啓蒙型から創造型へ   出会った方々6

 沖縄生活を始め、沖縄の教育実践運動にかかわり始めた1970年代の私の生き方として強調していたいことは、実践にかかわる優れた理論と実践体系を紹介するだけでなく、未着手の課題に取り組み創造していくことを中軸に据えることだった。だから、「優れた本土の民主教育の理論と実践に学び、遅れた沖縄の教育実践を引き上げる」という発想はガマンならなかった。それでは、「本土に遅れた沖縄の学力を引き上げる」という発想と同じことになるからだった。
 それにしても、60年代終わりから70年代にかけての沖縄教育界は、「遅れた沖縄を本土並みに引き上げる」という発想に充満していた。当時出会った民主教育を追求しようとする沖縄教員の多くも、そうした発想のとりこになっていた。そして、多くの「未熟」な教師や子どもたちを啓蒙することが、教育実践の中心課題だと思い込んでいた。小学校から大学までの授業も、そうした啓蒙的色彩を濃厚にもった知識伝達型に満ちていた。当時の私は、それを痛烈に批判していた。
 高校教師・大学教師を含めた知識人のなかには、そうした啓蒙伝達型が多くいた。そして、知をめぐる対立には、どちらの知が正しいかをめぐるものだ、という理解が多く存在していた。そこには知を創造することが欠けていた。授業でいうと、知を創造するのではなく、知を伝達することに終始し、正しい知を生徒学生が習得することに力を注いだのだ。
 また教員組合の教育研究集会などの記念講演には、「本土」から講師を「招聘」することが大勢を占め、沖縄内から呼ぶことは見当たらなかった。民間教育研究団体でもそうで、その時期、多くの著名な実践家・研究者が来沖した。そうした人と面識を持つことが多い私は、その都度呼ばれ、懇親会に参加するなどしていた。いってみれば、民間教育研究団体の沖縄も「出先」のような扱いだった。実際、いくつかの民間教育団体から、沖縄支部役員への就任の打診があるほどであった。
 こうした啓蒙性を打破していくためには、授業において伝達型ではなく共同創造型への転換が必要だし、民間教育団体の研究も共同創造型への転換が必要だった。そうしたことを訴えた私に共感して、共同創造に加わってくれる教員もいたが、依然として伝達啓蒙型を80年代以降も続ける人が多かった。

1970年代に出会った沖縄教師たち 啓蒙型から創造型へ   出会った方々6

写真は本文にかかわりなく、奥武島始祖の墓(観音堂に隣接)



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