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2024年10月28日

(続)幼少年期の家族  出会った方々2

身体上のことがあって、父は兵隊検査不合格であった。戦中では稀なことだった。昭和17?年の結婚だが、親戚つながりでの親決め婚だった。父は、結婚式前に、相手を見る機会があったが、母は、式当日に初対面だった。戦中の男不足のなかで、強烈な自信過剰で自負心の強い母にいわせれば、「しかたなし」に結婚した。
二人姉弟の姉は、「箱入り娘」状態を、彼女が50代後半に亡くなるまで続けた。日常生活だけでなく、進路選択はいうまでもなく結婚も、親決めであり、一生を生家で暮らした。彼女は、私と比べて40センチほど低い身長であったが、そのことを不憫に思うことを含めて、親は「未熟児扱い」を続けた。婿養子の夫と生家でずっと過ごしたが、夫婦のつながりよりは、母親との結びつきが強いままだった。県下「トップクラス」の普通高校に通い、美術制作などでは、優れた才能をみせていたが、生活はほぼすべて親、とくに母親のいうなりだった。私は姉と遊んだ記憶はゼロに近い。幼児期に一回だけケンカをした記憶が残っている。
こんななかで、私は、父から力で、母から口で、「いつ叱られるか」とびくびくする日々の中で成長していった。心休まる「家庭」を願う気持ちは、当時流行しはじめた「暖かいマイホーム」ブームと重る。また、当時のマスコミで作られたミッチーブームが、「やさしさ」願望を促進したかもしれない。
ということで、私は愛情・「やさしさ」願望を根深く持っていた。と同時に、並行して潜行した「寂しさ」からの脱出願望を後々まで引きずって行く。こんな状態を、愛着障害だとか、ナルシス障害だとか、恵美子が指摘し、なるほどと納得する私だった。

(続)幼少年期の家族  出会った方々2

写真は本文にかかわりなく、知念岬から太平洋・久高島を見る



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