嘉納英明「沖縄の教師の語り」新星出版2024年 を読む

浅野誠

2024年11月20日 09:33

 著者から贈呈された新刊を読む。「普通」と思われている教師とは異なる歩みをしている人、県外出身、異業種経験者、臨時教師などを中心にインタビューして、沖縄教師の「多様」な姿を描いた書。その「多様」な姿に触れて、新鮮さを感じるとともに、「普通」と思われている沖縄教師たちを、どのように受け止めるか、を間接的に問うている。
50年以上前に新里惠二が沖縄教師像を鋭く描いた(「沖縄史を考える」勁草書房1970年)が、それ以降、そうした著作は少ない。今回の嘉納書は、そうした分析を誘うような刺激に満ちた材料を豊富に提起している。著者にそうした分析に進むことを期待したいが、私自身も、それに挑戦するために、少しだけコメントしておこう。
嘉納書には、沖縄における「普通」の教師がもつ、「標準型」ないしは、「そうありたい」という志向性を暗示する要素をもっている。そして、それを批判し、オールタナティブな教師像を提供する志向するものをもっている。
そこには、「標準型」へと「同化」する志向性と、それに異議申し立てをして、多様なありようを広げる志向性とが葛藤しつつ並存している。同化は、単数的ありようだが、多様さは、複数的ありようで、それが教育界・教師界を豊かにすると考える。歴史的に言うと、後者の志向性は極めて弱かったが、嘉納書は、そうした世界を発見・意識化するうえで、有効な材料を提示している。
本書のなかでの早期退職者の事例などは、人生がいくつもあり、多様な人生をあわせてもつという、一本道ではないありようを提示している点で注目される。
これまでの沖縄教員たちは、「標準型」に縛られすぎて、本書が提供する多様性を促進するどころか、それを忌避する傾向を濃厚にもっていた。
また、沖縄把握を一色に塗りつぶす体質が広く見られる中で、多様なものを受け入れ、それで豊かになるという、いわば「チャンプルー」性という、沖縄のもつ歴史的体質を再発見促進する動向に注目するということでもある。沖縄を標準型の一色に塗りつぶす動向を、沖縄教育界は、ここ150年近く、強力に試行してきたが、それへの異議申し立ての可能性を含んでいる。
なお、標準型への志向による「沖縄把握」は、19世紀後半以降の沖縄統治のなかで形成育成され、それが県外の人々の沖縄把握にもなりがちの中で、本書に登場する県外出身教師たちが、以上述べてきた状況の中で、どのように変化したのか、あるいは変化しなかったのか、注目したいことである。
また、教師たちのなかでの世代的変化も注目されるが、「標準型」の世代的変化も注目されるが、嘉納書の主題ではないので、ここでは触れない。もう一つ、県内県外ではなくて、海外の教育界・教師界と比べてどうなのか、も重大な視点となるが、ここでは触れないでおこう。



写真は本文にかかわりなく、先日訪問した南風原集落光景  美人堂

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